最後に我が家がお葬式を出したのは私が5歳ぐらいのとき。ほぼ記憶にございません。唯一覚えているのがお坊さんがぐるぐる回っていたこと。
成田から電話したときはお通夜の始まる直前。そこから飛行機→電車→徒歩にて式場へ向かった。
守衛のおじさんに聞くと、控え室にいるそう。
控え室の戸を開けると、そこにはすでに出来上がった親戚数名&ゆでだこの弟。弟は同じDNAを受け継いでいるにもかかわらず、お酒を飲むとすぐに赤くなる。ざるの姉とは対照的である。
知らなかったよ。お通夜の後は故人をしのんで近親者でお酒のんだり、食べたりするの。
大量に飲んでいるにもかかわらずもともと強いのとショックでぜんぜん酔いが回ってないおじ(父弟)と酒を飲み交わす。実は高校卒業後すぐアメリカへ行ってしまった私はおじと一度も飲んだことがない。ざるの私に、さすが同じ血だと感心するおじ。
早速今後の日程が知らされた。お葬式は明日の朝8時から!そして初七日も同じ日に行う。それかその晩は式場でお線香の番をするため式場で泊まる。といっても蚊取り線香のようなお線香なので一晩持つらしい。
なんでそんな朝早くから葬式するのと聞くと。もちろん近所の人も手伝いに来てくれるのでさすがに朝8時はいくらなんでもないでしょうと言うと。ものすご~く長い説明をしてくれた。時は二月の3連休。なぜだか、二月に亡くなる人が多い。よって2月には法事も多い。お坊さんが法事の予約がいっぱいで来られない。なので檀家のお寺ではなく、そのお寺の知り合いのお寺からお坊さんにきていただいた。そして二月に亡くなる人が多いので斎場の都合が着かない。おまけに、その日はマラソンで式場の前の道は交通規制がかかっていた。すべてを総合すると、朝8時しかなかったそうです。
気が動転していた母。布団レンタルの数を間違えた!年寄りとお客を優先し、私が布団をあきらめ二人がけのソファーでシカゴから持ってきた極寒の地でも耐えられるダウンジャケットで寝ることになった。しかし、空腹(UAではほぼ食事の期待ができない、着いてからもおつまみ程度しか食べていない)、時差ぼけ、緊張、ソファーが短すぎる、で眠れなかった。吉牛が隣にあるので行けばよかったけどそのときはぜんぜん思い浮かばなかった。
が、時間が流れるのは早い。人に言われるままベルトコンベアーのようにお葬式は終わり、初七日も終わった。家に戻ってきたのは4時ごろだろうか?
そのまま、寝るといって私は消えた。私が寝ている部屋の中で母は電気を付け色々ごそごそでっかい音を出していたらしいけど、びくとも動かなかったらしい。普段眠りが浅い私にはありえないこととびっくりしていた。